『映像のポエジア ―刻印された時間―』 (アンドレイ・タルコフスキー著 / 鴻 英良訳 1988年 キネマ旬報社)
旧ソ連の映画監督タルコフスキーの、あまりにも美しく、あまりにも深遠な思想が克明に記録された一冊。すでに絶版となっており、現在ではプレミアがついている。
高円寺の古書店で本書を購入した十代後半の自分に「ナイス、俺」と言ってあげたい。
その当時はチンプンカンプンだった内容が、今では不思議とすんなり頭に入ってくるから、歳をとるのもまんざら悪くない、と思う。
いつの時代も、天才の仕事は預言的なので、真の理解には時間のフィルターを要するのだ。ちなみに本書は坂本龍一氏の愛読書でもある。
「芸術的発見は、その都度、新しくユニークな世界像として、絶対的真理の象形文字として現れてくる。それは啓示として出現する。世界の法則すべて、つまり、美と醜、人間性と残忍性、無限性と限界性のすべてを、一挙に直覚的に把握したいという、瞬間的で熱烈な願望として出現するのだ。」
「無限を物質化することはできない。できるのは、その幻影、つまり、イメージを創造することだけなのである。」
「詩について言うならば、私はそれをジャンルとは考えていない。詩、それは世界感覚である。」
「詩人とは、子供の想像力と子供の心理を持った人間のことである。」
「最も困難なことは、明らかに、自分固有の概念を創りだすことである。そして、それがどれほど残酷なものであれ、その拘束を恐れることなく、その概念に従うことである。」
「日本の俳句に私が魅せられるのは、それが字謎(シャラード)のように徐々に解読されていくこともなく、また、イメージの最終的意味を暗示することさえ原理的に拒絶しているからである。発句のイメージに求められているのは、それ自体のほかには何も意味しないことだ。にもかかわらず、そのイメージは非常に多くのことを意味しているので、最終的意味を捉えることは不可能なのである。言い換えれば、イメージというのは、視野の狭い概念的な形式に嵌め込むのが難しいものほど、その使命に正確に答えていると言えるのである。」
「芸術は論理的に思惟するものでも、行動の論理を形成するものでもない。信仰に関するある固有の公理を表現するものである。」
『映像のポエジア』が依然まばゆい光芒を放ち続けているのは、映画という一つの器を躊躇することなくぶっちぎるタルコフスキーの肉声が聞こえてくることによる。
本書は単なる映画の理論書ではない。ある人にとっては、ファインアートの手引き書となるだろうし、別のある人にとっては、祈りの書となる。そして、また別のある人にとっては、行き詰まったビジネスを打破するためのイノベーションの書にもなりえるだろう。
それはタルコフスキーという人物が、映画人である前に、並はずれた感性とスケールを持ったExileだったからではないだろうか。
そんな彼は、1986年12月29日、亡命先のパリで客死した。
54歳の若さだった。